田んぼに鯨油をまく農民[『除蝗録』島の館蔵]
ことで、鯨油を使いだしたのが、画期的な農業の進展になるのですから、西日本の中ではかなり使ったのではないですか。
中園…そうですね。捕鯨が産業として盛んになってくるのは、だいたい一七世紀の初め、江戸時代の初期です。その頃から西海でも爆発的に鯨組が増えていくわけです。逆に言えば、そういう鯨組が増えていくのは、消費がないと成り立たない。その消費が初期においても油にあっただろうということが資料から推測されるわけです。例えば平戸の吉村組という鯨組では、移動式の納屋を建てて、そこで鯨を解体、加工しているのですが、油納屋という言い方をしているのです。だから、油を作るというのが大きな目的で、できた製品が関西方面に出たのだろうと思うのですが、初期には多分、灯油として使われていた需要がかなり多かったのだろうと思います。その後一八世紀の享保の飢饉の頃に害虫退治の農薬として見直されるようになって、一八世紀の終わりくらいには、農薬としての需要がかなり定着してきます。例えば福岡藩とかでは鯨油を何千樽というように備蓄する形になっていきます。鯨油を田にまく習慣は東松浦半島では、小川島で捕鯨が存続したことが要因でしょうが、だいたい大正から昭和の初期くらいまで残っていたようです。ところが生用辺りでは廃油とか、魚油という形に変わってしまって、鯨油を使うことはかなり前に廃れてしまった。
谷川…廃油とは。
中園…機会油の使った後の汚れた油ですね。
谷川…熊本藩が、有明海を干拓したが、そこにできた鯨油免という地名があるのです。大牟田の近くですね。それは鯨油免で村人が共同して耕作した稲の収益で鯨油を買うための田んぼです。それで免税になるのです。
中園…熊本藩も、まとまって鯨の油を取引していたようです。益冨組では緑川下流の川尻や、菊池川下流の高瀬を鯨油の荷揚げ場所としていたようで、ここで川船に積み替えて、流域の各村に配られたものと思われます。また南の相良藩にも鯨油が販売されていて、この場合も球磨川を遡って運ばれたという記録がありますが、一方で球磨地方は鯨網を作
前ページ 目次へ 次ページ
|
|